中河原都市開発株式会社

中河原の紹介




【中河原の由来】k
中河原(なかがわら)は、現在の住吉町一丁目の一部(鎌倉街道沿い)に集落の中心があった村落です。幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には、「家数三十四軒所々に散在す」とあります。
中河原は、もと大道(大堂とも)と呼ばれていましたが、天文年間(1532-55)の多摩川の洪水により、石河原になってしまったために、それ以降は中河原と称したといわれています。古く、多摩川ははるか北側を流れており、中河原は多摩川の南側に位置していたようです。
地名の起こりは、集落が古多摩川(古玉川)と浅川との間の河原にあったことによるようです。中河原からは応安七年(1374)などの年紀が刻まれた板碑が出土しており、集落の古さを物語っています。(府中市設置の地名碑から)
※1660年頃に現在の多摩川の流路に固定されるまでは、現多摩川に浅川が流れており、古多摩川は立川段丘に沿って日野橋付近〜日本電気北側〜分梅町〜是政付近で浅川と合流していたようです。
中河原歴史資料ページ

中河原からは、応安7年(1374)の板碑のほか、応永24年(1417)、永享10年(1438)の板碑が出土しています。書斎は次をクリック。
中河原の板碑


【鎌倉街道】
中河原は、古来から鎌倉街道の沿道に発展して来ました。古鎌倉街道は国分寺市の国分尼寺跡北隣に切通しが残っており、それからまっすぐ南下して現在の東芝府中工場内を通り、浅間神社・八雲神社前の陣街道から多摩川に向かい、中河原の渡しを経由して鎌倉に至っていたと思われます。
大国魂神社西側の府中街道大国魂神社西交差点から第三小学校前を通り、光明院前で古鎌倉街道に合流する、現在の鎌倉街道は、江戸時代に整備されたと言われています。分梅消防署前からライフ角までの道路は、昭和12年に関戸橋と同時に整備されたようです。
新甲州街道(国道20号線)の本宿交番交差点から本宿トンネルを経て、中河原、関戸橋方面に向かう主要地方道18号線は、昭和52年(1977年)に開通しました。平成26年4月1日に公表された東京都の通称道路名ではこの道路の中河原駅北口交差点から北側を、「新府中街道」と称しています。


【中河原渡し】
中河原渡しは, 中河原と 対岸の関戸(現多摩市)との間を結んでいた 鎌倉街道筋の渡しで, 中河原村が経営していたことから その名があります。 多摩川の中に 中河原村と 関戸村の境界があるため, 関戸側には 関戸村が経営する関戸渡しが設置されていました。 これらの渡しは, 昭和12年に関戸橋が竣工し, その歴史の幕を閉じました。 渡し賃は, 明治25年で平水時(2尺5寸)徒歩(一人)3厘, 馬(一頭)6厘, 人力車(一輌)6厘, 大七以上荷車(一輌)1銭などでした。 水深が5尺以上になると「川止め」(通船禁止)になりました。平成元年12月府中市教育委員会(碑文から)


【関戸橋】
鎌倉街道が多摩川を渡る関戸橋は、旧橋(中河原から関戸方向)と新橋(関戸から中河原方向)によって、各々2車線ずつが通れるようになっています。旧橋は 昭和12年(1937年)、新橋は昭和46年(1971年)に完成したそうです。※平成28年1月から関戸橋の架け替え工事か始まっています。架け替え終了まで約16年間を見込んでいるとのことです。(東京都北多摩南部建設事務所が担当しています。)

◆令和元年(2019年)7月、中河原公園入り口付近に旧関戸橋の欄干と橋名柱、説明板が設置されました。
これは、旧関戸橋の一部をモニュメント等にして移築・保存することが、鎌倉街道の多摩川渡河の記録として、また、日本の土木遺産の一つとして必要と考え、地域のみなさんが関係機関への働きかけをした結果です。(下の写真)

関戸橋の説明(PDF)


【中河原駅】
中河原駅は、大正14年(1925年)3月に開通した府中と八王子を結んだ玉南電気鉄道(玉南鉄道)の駅として開業しました。大正15年(1926年)12月、現在の京王電鉄(株)の前身の京王電気軌道に合併し、昭和49年(1974年)7月に駅舎を高架化、平成16年(2004年)12月にはエレベーターを設置するなど駅舎をリニューアルしています。
中河原駅の歴史PDF


【西向庚申塔】
ライフの北西角に庚申塔の社があります。以前は、現在のローターリーのタクシー乗り場近くにあったようです。庚申塔の社は通常西南西を向いているのですが、この庚申塔は真西を向く珍しいもので、西向庚申塔と親しまれてきたそうです。諸病平癒、村内安全、五穀豊穣、二世安楽などの願いを叶えてもらえると言われています。
西向き庚申様むかしばなしPDF

【多摩川】 中河原駅から南へ約500mの多摩川。多摩川は、山梨県の笠取山(標高1953m)を水源とし、東京湾に注ぐ延長約138kmの河川です。なお、関戸橋は河口から約34km、水源からは約104kmの位置となります。

1660年頃に現在の多摩川の流路に固定されるまでは、現多摩川に浅川が流れており、古多摩川は立川段丘に沿って日野橋下流国立市青柳付近〜日本電気北側〜分梅町〜是政付近で浅川と合流していたようです。

現在、府中市側の堤防上は「府中多摩川風の道」公園として、散策やサイクリングなどを多くの方が楽しんでいます。河川敷には府中市が管理する住吉地区野球場があり、2面のグラウンドで軟式野球・ソフトボールを楽しめます。

多摩川の紹介ページ


201301 (640x480) 201302 (640x480) 201303 (640x480)

201305 (640x479) 201307 (640x480) 201310 (640x480)

201207 (640x480) 201210 (640x480) 201212 (640x480)


【青梅市沢井〜中河原〜国立市青柳】
 国立市青柳地域は、西多摩三田村沢井(現青梅市)からイカダ流しで移動して多摩川と浅川の合流点、現関戸橋上流付近に住みついた人々が、寛文11(1671)年にその多くが国立市青柳に移ったのが発祥だそうです。また、その一部の人は府中市住吉町の間嶋(あいじま)神社付近に移ったそうです。『「くにたちしらべNO12」(国立市くにたち図書館)、地名由来碑「間嶋」(府中市)から』
 なぜイカダで移動してきたのかは、「くにたちしらべNO12」では、時期には触れてなく、「多摩川の流れの関係」と記述されています。
※なお、現在の青梅市周辺を鎌倉時代から戦国時代の永禄年間まで治めていた三田氏が、永禄4(1561)年〜6(1563)年に北条氏照率いる後北条軍に攻められ、滅ぼされた史実から見て、その頃に戦禍を逃れて沢井から移動した人たちはどうしたのかも興味深いできごとです。
※明治に入ってからまとめられた『青柳根元録』に、次のような記述があるそうです。「多摩川南岸の一ノ宮・関戸両村(現多摩市)地続きの鎌倉道、別名陣街道ともいわれる街道に面した地にありました。しかし慶長けいちょう元(1596)年多摩川の大洪水で流路が変わり、本宿(府中市)に接続していた、青柳村が、青柳嶋と呼ばれる中州に位置するむらとなりました。」「くにたちしらべNO12」(国立市くにたち図書館)


【多摩川の流路と鎌倉街道渡河地点の変遷】
 多摩川の流れと鎌倉街道が川を渡る中河原の渡し関戸の渡しの位置の変化を、明治13年(1880)から大正10年(1921)の地図で見てみました。
 なお、現在の関戸橋は昭和12年(1937)に完成しました。昭和初期から関戸橋が完成するまでの間に現在の堤防の原型ができたのではないかと思われます。


中河原駅周辺地域の人口・世帯数推移


中河原の歴史を、「中河原あれこれ(中河原歴史資料)」の冊子にまとめました。

ご覧になりたい方はここをクリック願います。→中河原あれこれ(PDF)



中河原周辺の散策コースを、「中河原駅周辺散策コース案内」の冊子にまとめました。

ご覧になりたい方はここをクリック願います。

中河原駅周辺散策コース案内(PDF) 表紙本文




中河原番外資料ページ

(府中市小字名地図、府中市付近の地形図、国立府中用水路と旧河道図)




トップに戻る